迅さんと遊真が同棲ごっこをする話 - サンプル -

「三門市を出て、しばらく二人だけですごさないか」 　迅悠一に、そんなふうに誘われたのは、暑くなり始めて天気は毎日、雨ばかりが続いた頃だった。 「しばらくって？」 　彼に言われた意味が、まだよく飲み込めてもいないのに、そう訊いたのを覚えている。 「今のところ、予定してるのは十日間」 「みかどしを出て、どうするの？」 「おれと二人だけで暮らすんだよ」 「くらす？　迅さんと？」 　そう、と、良い笑顔で迅はうなずいた。 　遊真は、ふむ、と考えた。疑問も言いたいこともいくつかあって、どれにするか決めきれなかったのだ。 「でも、おれは学校があるよ」 「それがさ、方法はあるんだよ。夏休みまでは待っていられないからな」 「ふうん」 　首を傾げる遊真に、迅は妙に得意そうな顔をする。 「あんまり言えないことだから、みんなにはナイショだけどな」 　と、ニヤリとしてみせたのだった。 「迅さんは、いいの？　ボーダーの任務とか」 「大丈夫。それも問題ないよ。もう視えてるから」 「予知してるんだね」 　自信ありそうだし、遊真にはわかる。この人がこういう顔をする時は。きっと確定している未来なのだ。 　迅の目を見つめる、遊真の視線に応えるように、彼は見つめ返してきた。 「なあ、どうだ？　遊真」 　うーん、と考え込むふりをして遊真は目を逸らす。 　こんな時だけじゃないけど、ズルいな、と思う。 　三門市を出て、ということはボーダーの任務から離れるということ。それを大丈夫と言い切るぐらいだから、遊真が、なんと返事をするかぐらい、予知していたっておかしくない。 「どうしようかなぁ」 　遊真の返事をわかっていて、訊いている気がした。 　もう視えてるんじゃないの？　と、言ってやったら、彼はなんて答えるだろうか。 　迅は、いつもの余裕たっぷりな態度だ。それでも返事がまだもらえなくて、さすがにそわそわしてなにか言いかける。 「なあ……、あの」 「いいよ。いっしょに行っても」 　少しばかり息を呑んだように思えた。まばたきするほどのあいだ動きを止めて、やがて微笑む。 「そうか。良かった」 　ほっとしたように、感情を込めて言った。その様子は遊真が意外に思うほど嬉しそうだった。 「おれたちだけですごすって、なにをするの？」 「べつに、なにもしないさ」 　安心して迅は明るく軽やかな口調になっている。 「せっかくの休暇だからさ。のんびりしたいだけだよ。昼寝して、適当にごろごろして。散歩ぐらいは行くかもしれないな」 「どんなところで？」 「短い期間だけ借りられる家があるんだ。電気も水道もあるし、キッチンも家具も、必要なものはぜんぶ揃ってる。だから料理はおれたちでするし。ピザを頼んだりもしようぜ」 　遊真はその提案された暮らしぶりを、想像しようとしてみた。 　なかなか、はっきりと思い描くことができず、しかし楽しそうだな、という気持ちにはなってくる。 「迅さんの作る料理……」 「もちろんレイジさんみたいにはいかないけど、それなりにはできるんだよ」 「ふむ。じゃあ、期待してます」 　わざと真面目な顔と声で言うと、苦笑いされる。 「遊真にも手伝ってもらうよ。料理だけじゃなくて洗濯や掃除とか」 「そんなの、今だってしてるよ」 　口を尖らせて言い返すと、 「玉狛とちがって、おれたち二人だけでしなきゃいけないんだから。たぶん、おまえが思ってるより大変だぞ」 　と、迅は明るい声で言った。大変だ、と言っているのに、やけに幸福そうな口調で。 　そんなふうにして話は決まった。遊真は、ただその日がくるのを待っていればいいだけで、なにもかも、迅が手配して進んでいったのだ。折に触れて、ナイショだからな、という彼の言いつけを守って。 　訊く機会はあったのに、出発してからも、遊真は訊かなかった。なぜ、こんなことをするの？　と。 　なんとなく、訊くのが不安だったからかもしれない。 　ただ、迅と二人だけで、どこかでしばらくすごせるということが、とても本当とは思えなくて、ずっと胸の中がふわふわした感じだった。ようやく実感がもてたのは出かける日の朝になってからだ。 　彼に連れられて駅に行き、電車に乗って、シテイセキという椅子に座って少ししたら、電車が走り出した。すると迅が、目を合わせてきて、「よろしくな、遊真」と、ささやいたのだった。 　目的地の、電車を降りた駅からは、もう海が見えた。 「さて、ここから少し歩くぞ」 　迅が地図を見ながら言う。 　快晴だった。これから向かう家は、海辺まですぐだと話していたのだ。だからなのか、風の匂いが、なんだかちがう。遊真がそう言うと、迅は「しおの香りってやつだな」と答えた。 　途中、いろんな店が並んでいる通りを抜ける。三門市でも似たような景色があった。ショウテンガイというのだ。遊真はそこへおつかいに行ったことがある。 「ここに来れば、まあだいたいなんでも揃うな」 　迅も、歩きながら見渡している。 「夏本番になれば、もっと賑わうらしいけど」 「もっとたくさん人が来るの？」 「そうだろ。海水浴とかしに来るんじゃないかな」 「ねえ、おれ、海は近界でしか見たことがないよ」 　遊真が言うと、迅は微笑んだ。 「そうなんじゃないかと思ってたよ」 　ゆるい坂道を下っていくと、街並みはどんどんまばらになり、やがて視界が開けて海と砂浜が一面に見えた。横道へ逸れたところへ何軒かの家が固まっている。 「お、あれだな」 　迅はそちらへ曲がっていった。遊真は海の眺めに気をとられながら後を追う。 　ある一軒の前に立ち、かばんから出した何か書類と、家のドアの脇に嵌め込まれているプレートを見比べしていたが、「ここだよ」と、つぶやいて鍵を開けた。 「遊真も、ほら」 　中へどうぞ、と迅が手招きする。 「おじゃまします」 「あ、ここでは靴は脱いで上がれよ」 　言われたとおりにして遊真は入っていった。 　キッチンは玉狛のものより狭い。リビングはガラス戸から直接、海岸へ出られた。窓を背にしてソファが置かれている。 「ふうん、なかなか良さそうだ」 　部屋を点検するように見て回り、迅は満足そうだった。 「隣が寝室で、風呂やトイレはあっちか」 　遊真も他の部屋を見にいく。どこにも窓があって明るかった。寝室には大きなベッドが一つと、服を掛けておく戸棚と椅子がある。 　ベッドに近寄り、なんの考えもなしに、まっ白で清潔そうなシーツに触れてみた。 「試してみるか？」 　ふり向くと寝室の戸口に、迅が立っている。 「来たばかりだけど、ベッドを試してみる？」 　遊真は曖昧な表情をして首を横に振った。なんだってそんなことを言うのか、わからなかったのだ。 「まあ、今じゃなくてもいいか」 　迅は、自分だけがわかっている薄笑いを浮かべる。 　少しばかりおもしろくない顔つきになり、遊真が尋ねようとしたところで、迅がそばにきた。 　屈んで目を合わせると、なにも言わないままキスした。遊真は抗いもせず唇を受けとめる。海辺の家は静かで、ひっそりと波の音が届く以外は、なにも聞こえない。 　ここで、しばらくは迅と二人きりなのだ。誘われたときからわかってはいたけど、そのことで初めて遊真は顔を赤くした。 「さてと、どうしよっか」 　リビングへ戻り、迅はガラス戸越しの午後の日差しに眩しそうに目を細める。 「今日から使うって言ってあったから、掃除やなにかはしてもらってるけど」 　キッチンの冷蔵庫はみごとに空っぽだった。 「ま、食材の買い置きまではしてないよな」 「さっき見たお店に行ってみる？」 「そうだなー。ついでにこの辺をひとめぐりしたいし」 　財布だけ持って、二人は出かけた。